大田原市を含む那須野ヶ原は古代から大陸や半島の使者が渡来し、侍塚古墳、那須国造碑(日本三古碑)など、数々の歴史的遺産を有する古墳の里です。
また当時から稲作が盛んで明治以降の殖産興業の影響もありとうがらしやブルーベリー、いちご(とちおとめ)などの農作物に加え畜産業を含めた農業に適した土地です。
源平合戦で有名な那須与一ゆかりの地でもあり歴史と農業の地に菊の里酒造はあります。
慶応二年(1866年)、菊の里酒造は誕生しました。創業当時の屋号は蜂竜舎と言い、初代蔵元の阿久津藤右衛門は良質な水を求め、 現在菊の里酒造がある大田原のこの地に井戸を掘り酒造りを始めました。
清流那珂川をはじめ豊富な伏流水・地下水を有し古代より稲作が盛んな那須野ヶ原の自然の恩恵を受け日本酒を製造しています。
大田原市を含む那須野ヶ原は古代から大陸や半島の使者が渡来し、侍塚古墳、那須国造碑(日本三古碑)など、数々の歴史的遺産を有する古墳の里です。
また当時から稲作が盛んで明治以降の殖産興業の影響もありとうがらしやブルーベリー、いちご(とちおとめ)などの農作物に加え畜産業を含めた農業に適した土地です。
源平合戦で有名な那須与一ゆかりの地でもあり歴史と農業の地に菊の里酒造はあります。
江戸末期の慶応2年(1866年)10月1日、初代蔵元阿久津藤右衛門により今のこの地に菊の里酒造は誕生しました。当時の屋号は蜂竜舎といい最良の水を求めた藤右衛門はこの地に井戸を掘り酒造りを始めました。
大正5年に「一流」(「君の友」といったブランド銘柄を製造していましたが、昭和17年(1942年)に公布された企業整備令により製造を休止します。
その後昭和30年(1955年)に復活。翌年、周辺がかつて食用菊の産地だったこともあり屋号を菊の里酒造とし株式会社として再スタートします。再開後は順調に製造量を伸ばし、昭和50年代3代目の阿久津観蔵の代には約2000石を製造するに至りました。
しかし昭和60年(1985年)以降は大手蔵との契約が切れたこともあり製造量が減少。地元旅館や式場、観光地向けの製造に留まり平成14年(2002年)には100石程度まで 減り栃木県で最も製造量の蔵となりました。
厳しい状況の中現在8代目の蔵元阿久津信があとを継ぎます。立て直しを図るため新ブランドの立ち上げを決意。県内の同業者様や酒販店様に教えを受けながら今後の方向性を定め、誕生したのが「大那」でした。平成16年(2004年)商標登録が完了しました。しかし大那の船出は決して順調とは言えず、資金不足が影響し初年度は20石の製造に留まります。平成18年(2006年)より本格的な製造を開始。年々製造数は増えるものの、負債の返済や設備投資によるコストも大きく順風満帆とは行きませんでした。
苦しい経営の中転機が訪れたのは平成21年(2009年)。かねてから出荷していた東京の特約店の酒屋さんからの推薦で雑誌「danchu」に紹介されました。それをきっかけに知名度が上がり日本酒ブームも追い風となり売上が上昇。徐々に設備も整い始め、品質・味の再現性も向上し平成22年には全国新酒鑑評会で初めての金賞を受賞するに至りました。
その後製造量は平成28年(2016年)には600石まで増加。販路は国内に留まらずアジアを皮切りに欧州・北米へ出荷するまでに成長しました。世界的人気漫画や著名人とのコラボレーションのご縁もあり大那は広く国内外で楽しんで頂くまでに成長しました。
現状に留まることなく常に新しい事へのチャレンジを実施。大那に続く新ブランド「菊の里」をリリース。そして、世界市場を視野に令和5年(2023年)に高級酒「新たな」の販売を開始しました。
これまでお世話になったみなさま、今もお世話になっているみなさまへの感謝の気持ちを持ち、人に寄り添い、人と人、食と人とをつなぐお酒をみなさまへご提供できるよう 努めて参ります。